「言論の自由」は、弱者の権利保護が大前提

「言論の自由」は素晴らしい

「言論の自由」が当たり前の世界だったら、
それはいいかもしれない。

上司に対して「お前の面を見るだけで反吐が出そうだ。」
かわいい子には「君とセックスしたい。」
何でも言える。

向こうからも返ってくるだろう。
「俺だって、お前をクビにしたい。」
「アンタなんか、そばによるだけでもいやだ。」

それでも、何もなかったように平和に暮らせる世界なら、
お互いの考えがはっきりとわかるから、誤解があり得ない。
誰がどう考えているのかが明確だから、行動も選びやすい。
イヤならイヤとはっきり断れるから、誰も犠牲にならない。
脈がないのがわかれば期待もしないから、傷は浅くて済む。

「言論の自由」は素晴らしい!

「言論の自由」を享受できるのは強者だけ

でも、実際はそうならない。
無礼なことを言われたら、やはり不快だ。
言葉を選ばないと、人間関係は確実に壊れる。
暴力沙汰にもなりかねない。

だから、人間社会において、「言論の自由」は争いが前提だ。
言い換えれば、「言論の自由」の肯定は争いの肯定である。
そして、人間社会において、争いの肯定は弱肉強食の肯定になる。

人間社会において、「言論の自由」を享受できるのは強者だけ。
強者に対して「言論の自由」を行使すれば、ただちに弱者の生活は脅かされる。
「言論の自由」の名の下、弱者は一方的な言葉の暴力に耐えるしかなくなる。

言葉の暴力に関しては、「言葉の暴力も、身体的暴力と同等の犯罪とすべきだ」でも書いてます。

強者たる言論人たちよ、「言論の自由」を金科玉条のように語るなかれ。
弱者保護を大前提としない「言論の自由」は、言論統制と同様に危険である。

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