まじめな人は、人生に大義を求めて動けなくなる
小金持ちになりたいとか、そこそこの地位がほしいとかなら、本気で願ってさえいれば、そんなに難しくないだろう。
方法はいっぱい紹介されているし、教えてくれる人もいっぱいいる。
あとは、根気よく、その通り愚直に実行していればいい。
「努力は必ず報われる」とか、いい年して真顔で言うのはそういうレベルの人たちだろう。
「実は、自分が望む生き方をしている」も参照ください。
一方、まじめな人ほど、人生に大義を求めてしまう。
社会に価値あることで貢献しなければいけないという考えにとらわれる。
そして、自分のできる最大の社会貢献は何だろうかという答えを探し続ける。
特に若い時は自分を過大評価してしまうから、大きなことを考えてしまう。
そうなると、雲をつかむような話になるから、動きようがない。
かと言って、誰でもできそうなことでは満足できない。
自分はもっとすごいことができるはずだと。
そして、動けないまま年をとって、今度は、大した貢献もしていない自分を情けなく感じる。
「頭のいい人の人生がうまく行かないのはしかたない」も参照ください。
以上は、私の経験そのまま。
生きてること自体、大義に反している?
今思う。
人生に大義なんて、ありえないんじゃないか。
人を助けたとする。
でも、根源的に、生きることは幸福なのだろうか。
助けてるつもりで、結果的にはただの余計なお節介かもしれない。
大発明したとする。
それで便利になった。楽しくなった。
それがなんだ?
最終的には、環境を破壊するだけ。
身勝手な基準で発展とか言ってるけど、他の生物にとっては迷惑な話。
万物の霊長などとんでもなく、人間は地球最大・最悪の汚染ゴミ。
突き詰めれば、人間が生きてること自体、大義に反しているとも言える。
「今うまく行っていない人にしか、地球は救えない」も参照ください。
だから、極言すれば、最大の社会貢献は、多くなりすぎた人間を減らすことかもしれない。
無差別大量殺人をするか、独裁者になって戦争を始めるか?
それができないなら、自分が率先して死ぬことが、自分にできる最大の社会貢献かもしれない。
人生に大義を求めると、究極的にはそういうことになってしまわないか?
もちろん、そういう大義はお望みではないだろう。
人生に、大義などない
昔の私と同じように、人生に大義を求めて苦しんでいる人。
その苦しみは徒労に終わる可能性が高い。
自分の行動、特に仕事に大義を求めてしまうと、本当に何もできなくなる。
みんな自己満足のために無駄なことをやっているだけって、割り切るしかない。
大義など何処にもないと考えて、そこそこ自分が楽しめそうで道義的に問題なさそうなら、それで妥協するのが得策だと思う。
「人生はゲームセンターみたいなもの」も参照ください。


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