好奇心と向上心で生きている
年とって、あまり希望の持てない、面白みの少ない余生ではある。
それでも寿命まで生きようと思うのは、好奇心と向上心から。
まだ、この世で経験してないこと、いっぱいあるんで。
最後の最後まで、しぶとく味わい尽くしてやろうと。
それも、悪いこと多めでよい。
「イヤなことが多い中でやりたいことやって、最高の自分になる」で書いたように、いいことからは学びが少ないから。
イヤなことの多い、長い人生で鍛えてきたし、結構、耐えられるんじゃないか。
それも試したい。
でも、向上心はあっても、万人を愛せるような聖人になりたいとは、どうしても思えないんだよな。
腹立つ奴、多すぎて。
これが私の、人間としての器なんだろう。
いずれにせよ、あとは死ぬだけだから、結果はどうでもよい。
寿命まで何とかギリギリでも食いつなげば、人生最後の目標は達成だ。
昔は、勘違いの使命感があった
ところで、20年前の「死ぬしかない」と絶望していた私は、なぜ生きようと思ったのだろうか?
正直、勘違いの使命感があった。
自分のような能力と経験を持った人間は、社会に対して何か特別なことをしなければいけないみたいな。
だから、まだまだ死ねないって。
そんな大げさな社会的使命感で生きてたのが、上述のように個人的好みで生きるようになったのは、やっぱり50代になってから。
性格的に考えて、自分は大したことできないなって、ようやくわかった。
それで仕方ないと思った。
その程度の能力と経験しかなかったと納得した。
考えは変わるから、面白い
「人間五十年」生きてみないとわからないことってのも、あるんですよ。
それに合わせて、考え方も大きく変わる。
180度変わったとも言える。
だから、例えば70年、80年生きてみないとわからないことも、あるんだろうなと。
それで、また、考え方が変わるんだろうなと。
それが楽しみなんだ。
昔は、社会がどう変わるかだけが関心事で、自分がどう変わるかなんて考えもしなかった。
今は、自分がどう変わるかが面白くて、社会がどう変わろうが、どうでもいいんだよ。
どうせ長く生きないし。
