究極の人生目標は
「最高の自分、最大の社会貢献」。
それが、ずっと私の、究極の人生目標だった。
今の自分が、ほぼ「最高の自分」
「最高の自分」に関しては、まあまあ順調じゃないか。
もちろん、欠点だらけで、理想を言えばきりがないけど、完璧になれるわけもない。
古典の名著はほとんど読んだから、今後、考えを根底から変えるような学びはもう期待できないと思う。
旅も、どこも結局は人間の社会だから、もう慣れちゃって、戦火や人権蹂躙の真っ只中でも行かない限り、衝撃を受けることはないだろう。
滝に打たれたり、護摩行やったりしても、数回くらいじゃ、大きく変わるわけもない。
本格的に修行すれば変わるかもしれんけど、そこまでの根性はない。
他に何をやれば自分を磨けるか、具体的なアイデアがない。
つまり、ほぼ限界。
これ以上、大きくは変わらんと思う。
だから、今の自分が、ほぼ「最高の自分」なんだろう。
そして、その「最高の自分」は、よく他人に馬鹿にされる。
悪人のように言われることも少なくない。
(逆に、「最高の自分」からは遠かった頃の方が、ほめられ、善人のように言われていたかもしれない。)
でも、そんなことはどうでもいい。
他人にほめられる自分が、理想じゃないから。
あくまで、これまでの経験から確信した、自分の基準で決める。
むしろ、他人にほめられることを望んだら、それは「最高の自分」ではない。
「馬鹿にされても続けられるものがあれば、満足な人生になる」もご参照ください。
「最大の社会貢献」は、こんなもの
一方、「最大の社会貢献」に関しては、理想とほど遠い。
貧者の一灯で寄付したり、目の前で困ってそうな人がいれば助けたりはしてきた。
でも、もっと大きなことをやりたかったからね。
なぜできなかったか?
結局、他人にほめられるための「社会貢献」を目指したから。
完全に矛盾してる。
「最高の自分」は他人にほめられることを望まないとか、いいカッコしてるけど、本音では認めてほしいんだよ、やっぱり。
そこで、「社会貢献」というきれいごとで、不純な動機を隠そうとしたわけだ。
そもそも、純粋に社会貢献したければ、大きかろうが小さかろうが、自然にやってるはず。
動機が不純な時点で、社会貢献を語る資格などないわ。
そんな根性で中途半端にやられたら、むしろ迷惑だろう。
「マザーテレサよりも、その部下たちの方がすごいかもしれない」もご参照ください。
だから、私の「最大の社会貢献」は、貧者の一灯、目の前の人を助けるというレベルにしかなりません。
それらは、人に知られなくても、自然にやってる。
馬鹿な悪人と思われながらも、陰でやってる。
だから、純粋な動機でしょう。
(正直、慈悲深い神様にほめられようという気持ちはある。
そんな神様がいるかどうかわからんけど。
そのくらい思わんと、馬鹿にされながら「社会貢献」なんて無理だよ。)
究極の人生目標は、ほぼ達成したから
であるからして、「最高の自分、最大の社会貢献」という究極の人生目標は、ほぼ達成したということになる。
あとは、自然のなりゆきに任せて、少しでも向上すればいいねってこと。
人事を尽くしたから、天命を待つ心境。
天命がなければ、ここまでで終わり。
それで十分。
ところで、目標をほぼ達成したから、生きる張り合いがなくなった。
でも、無理に新しい目標を作るのは、違うような気がしてる。
目標がないなら、ないなりの人生を試してみてもいいんじゃないか。
新たな目標が自然に生まれてくれると、気分的に楽だし、ありがたい。
ただ、それをやるために生きていたいと思うようになったら、マズい。
あくまで、いつ死んでもいい、ボケたり体が動かなくなったりする前には死にたい、というスタンスは崩したくないから。
「たどり着いた場所が人生の目的地でいいじゃないか」と「「人生百年」なんてとんでもない。「人間五十年」で十分だ」も参照ください。


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