「人間五十年」超えて、早く死ねたら楽だろうと思う


早く死ねたら楽だろなと、ずっと思ってる。

「人間五十年」超えて生きて基本的なパターンは一通り見ただろうから、そろそろ終わってもいいだろうと。

 

人間という馬鹿な動物の群れの中で、ほぼ毎日不快な思いをして生きるのは、本当に疲れる。

社会の将来にも悲観的にならざるをえないけど、自分に何かができるとも、もう思わん。

 

今なら、ウクライナの義勇兵として戦えば誇り高い人生を締めくくれる。

でも、実際、私などが行っても邪魔になるだけ。

そこまで行かなくても、例えば、電車の中でタバコを注意して暴力受けた高校生を、誰も助けなかったって話があったけど、そういう時は自分のような年寄りこそが、率先して危険を冒さなければと考えてる。

そう思って、昔取ったきねづかで、数十年ぶりにシャドーボクシングをはじめた

(じーさんが、街中のガラスの前でシュッシュ、シュッシュやってるの、異様な光景だろうね。おかげで、いつも肩が痛い)。

 

早く死にたいと思うからこそ、前向きに生きられる


そうやって死を待ちながら生きてるんだけど、やる気がないわけじゃないんだわ。

少しでも賢くなろう。

少しでも強くなろう(特に心の部分)。

少しでも、自分の恥ずかしい情けない要素を減らそう(これも心の部分)。

そう思って生きてる。
正直、悟るために生きてます」も参照ください。

 

それで思ったんだけど、早く死にたいと思いながら前向きに生きられるって、最高に幸せじゃないかって。

 

必ず来る死を恐れ、避けたいと思っていたら、ずっと不安だらけだろう。

生きることが楽しいほど、捨てがたいものが多いほど、怖いだろうね。

 

でも、逆に、死がすべて解決してくれるのを、むしろ期待して待ってるのだから、そのような不安は当然ない。

 

そして、早く死にたいと思えば、いつも、死を意識して生きることになる。

だから、やりたいことを優先的にやるようになる。

無駄なことはやってられないってなる。

他人の評判なんて、どうでもよくなる。

結果も問題ではなくなるから、やれるだけやればいいという気になれる。

終わりが見えてるから、頑張れる気がする。

やりたいなら、危険なことだってやれるだろう。

結果、純粋に自分らしく生きられる。

前向きに生きられる。

 

それが、自分の力だけでコントロールできる最高の幸せじゃないかい。

 

前向きになれないのは、社会に何かを期待しているから


早く死にたいと思いながら前向きになれないとしたら、それは、まだ社会に何かを期待してるからじゃないのかね。

自分を認めてもらいたいと。

私みたいな年寄りでも、人に認められたいなんて思ってしまう瞬間はあるけど、そういう時はつらいからね。

ただ、そんなのはどうでもいいことだと、すぐ頭を切り替えられるのが年の功。

そうすれば、前向きになれる。

 

若い人には難しい発想だろうと、経験的に思う。

それは、まだまだ執着して生きなさいということでしょう。

これから社会に認められて、生きるのが楽しくなるかもしれないしね。

いずれにせよ、とことん悩み苦しんで答えを見つけなさいということじゃないですか。

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