結構まじめに努力してきた


社会の役に立ちたいと本当に思ってたんだ。

 

「豊かに」とか「便利に」とか、そういうのは全く興味なくて。

少なくとも善良な人であれば、みなが幸せに生きられるような社会に近づけたいと。

 

と言いながら、自分だって、純粋な善意でそう考えてたわけではない。

人に尊敬されたいという、いやらしい考えはアリアリだった。

ただ、尊敬されるように、自分を律しようという心がけでは生きていた。

(その心がけで生きた結果、「尊敬されたい」という考え自体が尊敬に値しないということがわかったのだが)

 

そして、いろんなことをやった。

旅行に行くのも、政治的紛争でキナ臭い地域や自然環境の厳しい場所。都市に行っても、貧民街にワザワザ出向いた。

アメリカの大学院に留学して、国際関係論を学んだ。

複数のNPOでボランティアした(スタッフとの人間関係で、いずれも長く続かなかったけど)。

知識を得るために、専門書を相当読んだ。

語学もできたほうがいいと、英語にプラスしてフランス語を学んだ(ドイツ語とスペイン語も少々)。

体力も重要だから、運動も続けてた。

根性と度胸を磨くため、ボクシングもやった。

(興味ないけど)お金の問題も避けられないから、経営学を学び、経営コンサルタントとかいう職業にもついた。

古典の名著を読み込んだのも、何が正しくて何が間違ってるのか、実社会の中でよくわからなくなったから、その答えを探すことがきっかけだった。
英語、古典、歴史、そして運動」も参照ください。

 

結構まじめに努力してきたと思うんだけど、結局、何にもならなかった。

いろいろやりすぎて中途半端になったところはあるかもしれない。

何よりも人間関係に努力しないのが致命的だったのだろう(自分より馬鹿と思う奴に嫌われないために気を遣い続けてたら、ものすごくしんどいし、バカらしいから)。

 

その後、自分で起業しようとしたが固まって動けずに引きこもって、死ぬしかないと思った経験も、それから派遣社員として働いて、娘みたいなヒヨッ子社員に罵倒されながらアゴで雑用押し付けられてた経験も、最後に社会の役に立つためのステップとしてとらえていたが。

 

運命が私を必要としなかった


社会の役には立たないまま、60歳近くなってしまい、さすがにもう、お役御免だろう。

スマホやSNSの使い方もよくわからんし、時代からも遅れてしまった。

 

運命が、私を社会のために必要とはしなかったってことだ。

もし私が社会の役に立つ運命にあったのなら、そのような状況に自然に導かれていたと思う。

 

例えば、スウェーデンの環境保護活動家グレタ・トゥーンベリさん。

いろいろやってるようだけど、10代の少女にすぎない。

なのに、世界の環境保護活動のシンボルのようになってしまった。

これなんか、運命が彼女を選んで役割を与えたとしか言えないだろう?

 

一方、私は、運命に選ばれるような器ではなかった。

 

これから役割があるかもしれない


それで、これから?

これで人生終わりなら、一所懸命突っ走った、エキサイティングで幸せな人生で、後悔ないんだけど。

 

まだ生きてるから(あっちこっちガタ来てるけど)。

死ぬまで、目的なく、酒飲んでゲームして動画観て過ごす生活も面白そうなんだけど、なんか「やり残した感」があるんだよ。

 

だから、やっぱり、最後まで運命に任せてみようかなと。

できることの中でマシそうなことをやり続けてたら、最後の最後に、役割があるかもしれないし。

何があるかわからないだろ?

 

期待感は薄いから、やる気少なく、ダラダラ暇つぶしモードだけど。

結果、何の役割もなく人生終わっても、それはそれで、もちろん、全然OK。

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