気のやさしい高潔な人は、人付き合いが苦手
人付き合いが苦手な人の多くは、基本的にいい人だと思う。
気のやさしい高潔な人だと。
やさしくて気を遣いすぎるから、精神的に疲れる。
高い道徳心で自分を律しているから、いい加減な人間には耐えられない。
さらに、人付き合いの中では、自分自身が道徳に反する行為をしてしまうケースも起こりうるが、その罪悪感がつらい。
だから、人付き合いはできる限り避けたくなる。
気のやさしい高潔な人が苦しむことこそが人生の真髄
だけど、人付き合いが苦手だと、生きていくのは非常にむずかしい。
そして、人付き合いの苦手な人は、馬鹿にされやすい。
どんくさく不器用に見える上、その結果として収入・地位も低いと、社会の蔑みの対象になってしまう。
それこそが、気のやさしい高潔な人が生涯を通して悩み苦しみ続ける、人生の真髄かもしれない。
私も60年近く生きて、早く死にたいと思う唯一の理由は、人間関係が面倒なこと。
実は、人と関わらずに生きていけるなら、未来永劫生きてもいいくらいに思ってる
(人と関わらずに生きるのは苦しいと言われるけど、今の私には実感がない)。
長く生きれば生きるほど、信用できない人間と出会い、利用され、裏切られてきた。
「誠実でいたいなら、だまされるのは仕方ない」も参照ください。
信用できない人間の中で生きる意味
そんな人生に意味があるならば、それは、そこから何かを学ぶってことしかないだろう。
少なくとも、知恵を絞ってだまし合うことに意味があるとは思えない。
では、信用できない人間の中で何を学ぶのか?
信用できない人間の中でできることと言えば、冷静に理路整然と話す努力をし、それが相手に通じなければ、あとはひたすら我慢することしかないだろう。
誰かの身に危険がある場合だけは、勇気を出して戦うとして。
あるいは、それらを超えた愛と寛容を学ぶ?
でも、人間が愛と寛容に値する存在であるかが、そもそも疑問なんだ。
地球上でもっとも有害で迷惑な存在だろ?
こんなのに愛と寛容なんて、身勝手で無責任過ぎないか。
ゴキブリの方が、ずっといとおしい。
直接の害はないし、迷惑かけないように隠れてる。
「「感謝して生きる」など傲慢。申し訳ないと思って生きろ」も参照ください。
だから、私に、人間に対する愛と寛容が学べるとは思わない。
でも、今後も生き続ける中で、今は想像できない何かを学べるかもしれないという期待はある。
それが悟りと言えるものかはわからないが。
それを期待しながら、自然が殺してくれるまでは、信用できない人間の中で生きてみてもいいだろう。
「長く生きれば、考え方もまったく変わるから、面白い」も参照ください。
ちなみに、人付き合いが苦手な、気のやさしい高潔な人がコントロールする社会であったならば、人間は、今ほど有害で迷惑な存在にはなってなかったはず。
気のやさしい高潔な人が生きにくいような社会が、地球まで滅ぼそうとしている。
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