バカにされる方が名誉かもしれない
バカにされても、悔しいとは全く思わない。
まじ、腹も立たない。
本当に。
なぜなら、相手の方がバカだと思っているから。
そいつとは、もう関わらないようにしようと思うだけ。
相手するだけ、貴重な時間の浪費だから。
若い頃は、こうも行かなかった。
悔しいというよりは、認められないのが悲しいって感じだったかな。
でも、今はもう、認められようなんて思ってないから。
そもそも人間はバカな動物だと確信したんで。
バカに認められても、別に名誉な話じゃない。
むしろ、バカにされる方が名誉なことかもしれない。
みんなと同じようにしていれば、バカにされることはないはず。
つまり、バカに見えるということは、みんなとは違うということ。
すなわち、自分は、少なくとも、標準的なバカな動物とは違うということだから。
そこで、もし人生の使命があるとして、「バカにされる」こと、それ自体が自分の使命の原点ではないかと最近思うようになった。
「馬鹿にされるのは、人格者と思われているから」も参照ください。
人間関係が苦手な人の人生の使命は
昔は、自分にはものすごい人生の使命があるみたいに期待してたんだけど。
小学校の頃は何もしなくても成績よかったから、地頭は悪くないだろうし。
好奇心を持って勉強して、知識もある方だと思う。
鍛えて、体力もある。
まじめで温厚。
国際経験も豊富。
個人の資質としては、上位の部類ではないかと。
でも(だからこそか?)、人間関係は苦手だ。
こういう人、いっぱいいると思う。
個人の資質としては優れているのに、ただ人付き合いがうまくいかない人。
結果、ひきこもってる人も多いだろう。
もったいないと言われながら。
そういう、私もその一人だと思うけど、力はあるのに人間関係は苦手という人。
そういう人の人生の使命って何なのか。
もし慈悲深い神の意図があるならば、そういう人はどういう目的を持って生まれたのか。
その力を発揮するために、まずは人間関係の壁を乗り越えろってことか?
でも、私は、その壁を乗り越える前に、人間は地球上で最も有害な存在であるという認識に至ってしまった。
「愛だ」とか「他人に奉仕」とか言うけど、そんなの、最も有害な存在同士で内輪の身勝手としか思えない。
だから、そんな壁をわざわざ乗り越える必要はないんじゃないかと思いはじめてる。
人間関係が苦手な人の使命は、社会に貢献することより、自分の内面を磨くことだってのもありかなと。
持ってる力を、無理して社会のためには使わずに、自分の成長のためだけに使うでいいかもしれないなと。
それが、慈悲深い神の意図ってことも、十分ありえるんじゃないかと。
(ひょっとしたら、内面を磨いて成長した上での、より高い次元の社会貢献だってあるかもしれないが、今の自分には実感できない。)
「ひきこもりのメリット」と「社会貢献しないことこそが、最大の社会貢献かもしれない」も参照ください。
そして、それを徹底すれば、社会からは必然的に「バカにされる」だろう。
バカにされることのメリット
「バカにされる」ことを受け入れれば、いいことばかり。
● 大抵の非礼行為を「使命だから当然」と考えられれば、心を乱されることが少なくなる
● 自分を大きく見せようとするような、非常にみっともないこともやらなくなる
デメリットは……特にないだろ?


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