年寄りは死ね?
あと半年で還暦。
一通り生きたってことだろう。
「人間五十年」から言えば、十年も余分に生きられた。
また、何度も書いてるけど、やりたいことはほとんどやった。
あとは、これまで読んでない、もしくはもう一度読みたい名著、それから、まだ観てない名作映画を観たら、もう生きる理由は個人的にはない。
だから、あと数年で、一切心残りなく死ねるようになるはず
(野球とか相撲とか観続けたいスポーツはあるけど、これはキリないから)。
一方で、「年寄りは死ね」という論調が世間でちらほら。
気持ちはよくわかる。
実際、死んでくれたら負担は減るだろう。
まして、バブル時代に散々いい思いをし、その後の二極化社会を招いた責任世代でありながら、その被害者である若い人たちに大きな負担をかけて、ぜいたくな老後を当たり前に楽しもうなんて、私でも、「死ね」って思うよ。
昔は、年寄りには経験に基づく知恵があったから存在価値は大きかった。
でも、今は、知恵はインターネットで共有されている。
一人の年寄りの思い込みより、複数の提供元から情報を集めれば、よほど正確で価値ある知恵を得ることができる。
残念ながら、年寄りの数は増えたが、存在価値は激減した。
社会をよくするためとかきれいごとを言っても、その社会を長く生きなきゃいけないのは今の若い人たちなのだから、若い人たち自身が生きやすいようにすべきだろう。
そこにも、年寄りの出番はあまりなさそうだ。
つまり、厳しく見れば、年金を受け取るまでに死んだ方が社会全体のためになるというのが現実。
だから、私も、年金受給開始の65歳までに死んだ方がいいのかとまじめに考えてみた。
「生き残ることは、決して名誉なことではない」も参照ください。
生きるべきか死ぬべきか、でもプレッシャーはない
死ぬのは全然OKなんだ。
どっちにせよ、いつになるかだけの問題だから。
むしろウェルカム。
無理して長く生きたいとは全く思わない。
(2030年のWBCとサッカーW杯を観てから死ぬのが個人としてはベストタイミングかなと思ってる。
65歳を約2年過ぎるけど、そのくらいは年金受給開始を遅らせて。)
だから、(事故や殺人も含めて)自分の意志とは無関係に死ぬのなら、何の問題もない。
ガンとか死の病にかかったら、それも自然の導きと捉えて延命はしないつもり。
さらには、仮に高齢者の尊厳死が法的に認められるようになった場合、それは「死んでもいいよ」という運命のメッセージと受け止めようと思ってる。
だけど、自分の意志で死ぬかとなると、死んだ後のことが引っかかる。
死んだ後どうなるのかが全くわからないから。
自然に逆らい、馬鹿な人間のこざかしい知恵で自ら死期を早めるのは、神の領域を侵す思いあがった行為かもしれず、厳しい神罰もないとは言いきれない。
とりあえずは、神に逆らってしまうかもしれないのが何となく怖いので、生きることを選択させて頂きます
(これじゃ、孫がかわいいから生きていたいというのと同じレベルの話かもしれん)。
が、この「生きるべきか死ぬべきか」の究極の問題には、これから、ずっと悩みそうだ。
でも、社会からは死んでほしいと思われてる分、気は楽。
何が何でも生きなきゃいけないってプレッシャーがなくなるから。
最後のチャレンジやりましょう
それで、残りのやりたいこと全部やりきった後、私は何をするかだ。
上述のように、年寄りはほぼ役に立たないと思うけど、それでも、社会を少しでもましにするために、無駄なあがきをするしかないかと。
他にやりたいことないから。
ひょっとしたら何かできる、可能性はゼロではないから。
可能性がゼロでない限り、やってみないと、死んでから閻魔さんに怒られそうな気も少しするし。
その取っ掛かりとして、突然の思い付きで、人間関係に関する有名な本を数冊読んだ。
これまで軽視して全く努力してこなかったんだけど、最後にチャレンジしてみようかと。
結局、人間関係の極意とは、人間は誰だって「自分は偉い」と思いたいから、そう思わせてやればうまくいくということみたい。
間違ったこと言ってても、実害がないなら放っておけと。
それ、私もできないわけじゃないんだ。
昔はやってたから。
確かに、それをやってる限りは、どこ行っても重宝されてた。
でも、アホらしくて自分が情けなくなるから、続けなかった。
地球で最も有害な存在である人間だけども、結局は同類だから、それを裁くのも神の領域。
それに、私程度かそれ以上の善人はいっぱいいるはずだから、謙虚に、そういう人を探すべきではないか。
最後にもう1回、そういう心構えでやってみようかと。
「60歳過ぎれば逆転する」と「やることないから、無駄な努力でもしてみよう」も参照ください。


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