合理的に考えれば、私は既に死んでいる


現実的に考えれば、早めに死んだ方が楽だろう。

これから奇跡のようなことが起きるなんて、期待しない方が無難だろうし。

社会にとっても年寄りははっきり邪魔なわけで。

 

頭だけで合理的に考えたら、思い切って死ぬ方が高潔な感じがする。

もし私が完全な無神論者であれば、強い使命感から既に死んでいたかもしれない。

 

でも、無神論者にはなれない。

 

私にとっての「神」


昔、カトリック系の進学校にいて、神父たちのナマグサい姿をさんざん見せられながらキリストの訓話を聞かされて、しらじらしいとしか思わなかった。

だから、宗教どっぷりには強い抵抗感があるんだけど、それでも「神はいない」とは思いこめない。

 

理性的に考えても、人間のようなバカな動物を大きく超越し、しかもバカな動物には全く感知できない存在がいても、むしろ当然で、変な話では全くないと思うんだけどね

(日本人にこれを話すと、ほぼバカにされて気味悪がられる)。

とにかく、私の心の奥底には、神(もしくは、それに類するもの)がいるという意識が存在している。

 

ところで、「神はいない」と言う人は、どうやって自分を律しているのだろうか。

「神はいない」のなら、私だったら、誰にもばれないようなら悪をやってもいいってなってしまいそうだ。

そもそも、自分の利益にならないなら、善行自体やろうと思わないのでは?

善人と思われたら得になりそうだと考えた時だけ善人のふりをする。

つまり、行動の判断基準は、善悪ではなく、自分にとっての損得だけ。

このように、「神はいない」のなら、損得抜きの純粋な善は絶対に実行不可能と思うのだが、そう思うのは私の根源が極悪だからかな?

と言って、宗教どっぷりの人が、損得抜きの純粋な善を実行してるかはわからないのだけど。

 

不思議な力に導かれている


ただ、「神」が、本当に慈悲深い正義の存在なのかは迷うところ。

社会を見ていても、「神」の意図は全くわからない。

 

それでも、私にとってはポジティブなイメージ。

なぜかやりたいこと全部やれて、幸せな人生だったし。

一方で、社会的にはうまくいかず、バカにされまくったからこそ、達観に近づけたし

(これが成功してチヤホヤされてたら、間違いなく俗物になってる)。

死にかけたことからは複数回、さらに自分の不注意で一生償わなければならないような罪を背負いかけたことからも、救われた。

何か不思議な力によって、よい方向に導いてもらってると信じられる。



 

だから、焦って死ぬのはもったいないというのが、現在の結論。

今後さらなる苦境があったとして、それは、さらなる達観に必ずつながると信じられるから

(私は、富と名誉を得ることよりもずっと、例え孤立と貧困にあっても達観することを本音で望んでいる)。

 

そして、早すぎる死から何度も救ってもらったのと同様、死ぬべき時にはあっさり殺してもらえるだろう。

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